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【2024年11月26日20:36 】 |
「日清戦争開戦から120年、国民よ、平和を欲するなら戦争を学べ!街宣 in 湖南」の報告

反日ハンター・神功正毅です。

「日清戦争開戦から120年、国民よ、平和を欲するなら戦争を学べ!街宣 in 湖南」のお知らせ
で伝えたとおり、7月26日(土) 16:00~ 国道1号線針交差点 ココス甲西店前において「日清戦争開戦から120年、国民よ、平和を欲するなら戦争を学べ!街宣 in 湖南」を行いました。
その報告をします。
これがその時の映像です。
日清戦争開戦から120年、国民よ、平和を欲するなら戦争を学べ!街宣 in 湖南
https://www.youtube.com/watch?v=mADHfNxfS4A



安倍内閣が集団的自衛権の行使容認を閣議決定しました。
msn産経ニュース/安倍内閣、集団的自衛権の行使容認閣議決定 戦後の安全保障政策大転換
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140701/plc14070117250020-n1.htm

集団的自衛権の行使を容認する閣議決定が成立したことは日米安保条約を結んでいるアメリカとの紐帯が強固になることでシナなどの日本への侵略行為の抑止につながり、日本の防衛を容易にすることでしょう。

ですが、国民の国防に関する意識の低さは目を覆うばかりです。
嘆かわしいことに湖南市では「集団的自衛権行使を容認する解釈改憲を行わないことを求める意見書」「「特定秘密保護法」の廃止を求める意見書」が可決されました。

昔の日本は今と違って日本の防衛力強化に真剣に取り組んでいました。

今から120年前の明治27年7月25日、豊島沖海戦が始まりました。
1894年7月25日早朝。まだ互いに宣戦布告はなされていなかったが、日本が7月19日に突きつけた5日間の猶予付最後通牒への返答がないまま期限が切れており、法的には戦争状態に入り、あとはいつ戦端が開かれるかという段階であった。ただし、日清以外のイギリスなどの第三国はまだこのことを知らない。

第1遊撃隊は朝鮮の北西岸豊島沖で会合する予定だった通報艦「八重山」と旧式巡洋艦「武蔵」を捜していた。二条の煙を発見し近付いてみると清国の巡洋艦「済遠」と「広乙」であった。清国艦隊もあとから陸兵を乗せてやってくる予定の清国商船「高陞号」(こうしょうごう)とその護衛の清国軍艦「操江」の露払い役であった。2対3の巡洋艦が対峙することとなった。


高陞号事件

「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。「浪速」は高陞号に空砲2発をうち、手旗信号で停船を求め、臨検を開始した。

10時40分、臨検を命じられた人見善五郎大尉は高陞号に到着し、ただちに船長ゴールズワージーに面会した。人見は船籍証明をチェックし、ゴールズワージーを尋間したのち帰艦し、東郷に復命する。その内容は
本船は英国ロンドン所在インドシナ汽船会社代理店、怡和洋行(ジャーディン・マセソン・コンパニー)の所有船
清国政府に雇用され、清兵1100名、大砲14門、その他の武器を太沽より牙山に運送中
船長にわが艦に随航することを命じたところ、船長はこれを承諾

であった。東郷はただちに「錨をあげよ。猶予してはならない」と信号旗をあげた。

ところが、船長は「重要なことがあるので、語し合いたい。再度端艇をおくれ」と返答する。人見大尉が再度赴く事になるがその際に東郷は「清兵がもし応じないようであれば、ヨーロッパ人船員士官に何が重要かを問い、移乗を望めば、端艇にて連れ帰れ」と訓令した。

人見大尉はまもなく帰艦し、「清兵士官は船長を脅迫して、命令に服従できないようにし、かつ船内には不穏の状がある」と復命した。東郷は「高陞号」の英国船員に向かい「艦をみすてよ」と信号を送る。その後、「端艇をおくれ」と返信があり、「端艇おくりがたし」と連絡すると、突如「許されぬ」と答えがあった。東郷は再度「艦をみすてよ」と信号し、かつマストに警告の赤旗をかかげた。すると高陞号船上では清兵が銑や刀槍をもって走りまわるさまがうかがえた。2時間に渡る問答の末、抑留が不可能と判断した東郷は「撃沈します」と命令した。

「撃ち方始め」の命令とともに水雷が発射され、砲撃が開始された。1時45分、「高陞号」はマストを残して海中に没した。東郷は端艇を下ろし、泳いで浪速に向かってきた船員士官全員を救助した。

結果

この海戦による日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。清国側は「済遠」が大破とされているが真偽は不明、「広乙」と「高陞号」も撃沈された。「操江」は「秋津洲」に鹵獲され1965年の除籍まで日本でさまざまに利用された。

影響

日本国と清国の全面戦争が避け難いものとなり、7日後の8月1日に宣戦布告が日本からなされた。

このあと英国船籍の商船「高陞号」を撃沈されたイギリスでは、日本に対して反感が沸き起こる。 イギリスが当初問題にしたのは、豊島沖海戦が戦争中か否かという点にあった。

豊島沖海戦は日本の宣戦布告以前の7月25日に起きている。日本は7月19日に清国に「今より5日を期し、適当な提議を出さねば、これに対し相当の考慮をおしまず、もし、このさい(朝鮮への)増兵を派遣するにおいては『脅迫』の処置と認む」と警告(いわゆる「五日猶予付き最後通牒」)した。

この「脅迫」という文言は当時の外交用語では「戦争開始」という意味であり、「挑発」なども同義である。実際1911年のアガディール事件のさいドイツ外務省がこれを使い、イギリスはただちに艦隊の出師準備発動を命令するという騒ぎになっている。

日本は警告した同日付で連合艦隊の出師準備発動を命令した。だが、この外交的推移は当事国しかわからず、第三国にはわからないものだった。とりわけ清国政府は日本の最後通牒を公開しなかったので尚更第三国に情報は流れていなかった。

イギリスの国際法学者トーマス・アースキン・ホランドとジョン・ウェストレーキは、この問題に対し別個にタイムズ紙に寄稿して国際法を説明し、結論として日本側に違法行為はないことを主張した。

「高陞号の沈没したのは戦争が開始されたあとである。戦争というものはあらかじめ宣言せず始めても、少しも違法ではない。これは英米の法廷で幾度も審理され確定している。高陞号の船員は初め戦争が起こったことを知らなかったに違いない。だが、日本の士官が船に乗り込んできたときこれを知ったとみなさざるをえないし気づくべきであった。このとき英国旗をかかげていたか否かは重要ではない。戦争が始まったのであれば交戦国の艦艇は公海上ならあらゆる船を臨検し交戦国の船、第三国の船でも相手国向けの戦時禁制品が積んであればこれを没収、あるいは破壊・処分し、必要なら撃沈するというのは艦長に認められる権利だからである。日本水兵が乗船しても捕獲することは不可能と認められるので、日本の(浪速)艦長が、いかなる暴力を用いようとも、それは艦長の職権である。また沈没後に救助された船員は規則通り自由になることができたので、この点でも国際法に背馳していない。それゆえ日本政府が英国に謝罪する義務は生じない」。

イギリス留学で国際法を勉強した東郷はこのことを熟知しており、この件に関しては常に合法な範囲で行動していた。結果イギリスの世論は沈静化するが一方で「高陞号」が清国兵及び大砲を輸送していたことにより、清国が天津条約を背馳し、日本の最後通牒を無視して朝鮮領海内を突破し、牙山に大兵を集中させつつあったことを全世界に暴露してしまった。その為中国がこの戦争において侵略者であるというイメージをもたせてしまう事になった。


当時巡洋艦の艦長に過ぎなかった東郷平八郎(後の連合艦隊司令長官)でさえ国際法を熟知して合法的に戦闘を行い、日本国民は近くにある朝鮮半島が列強の植民地になればそこを足がかりに日本に侵略の魔の手を伸ばしてくるという危機感をもって戦争に赴き、多大な負担に耐えました。

日清戦争の勝利の結果、日本は独立を確保し、かつ、欧米列強と同等の地位を得ました。

我々の祖先の尊い血の犠牲によって現在の日本があるのです。

我々憂国派と売国勢力との戦いはかっての日清戦争のような様相を呈しています。

国民よ、祖国を守るために清帝国(当時)と雄々しく戦い、散華された軍人を称え、祖先の偉大なる業績を語り継げ!

国民よ、真実はいつも一つ。
「戦争に備えることは、平和を守るもっとも有効な手段の一つである」(ジョージ・ワシントン)
この言葉どおり自らの安全を自らの力によって守る意思を持て!
120年前の7月25日に起きた「豊島沖海戦」から朝鮮半島を清から解放するために戦った我々の祖先のように。

そして日本の破壊を企む反日主義者どもよ、チキンラーメンを食べて心の祖国へ帰れ!


現在わが国に不法行為を行っている中国、韓国、北朝鮮と、そして国内でこれら中国、韓国、北朝鮮と通じているかのように日本国内の混乱・衰退をもたらす活動を行う勢力に「果たし状」を叩きつけ、そして打ち破れ!

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【2014年08月24日12:27 】 | 報告 | コメント(0)
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