わしが反日ハンター・神功正毅ぢゃ。
「子どもを捏造文化の刷り込みから守れ! 街宣 in 長浜 第一弾」開催のお知らせ
で伝えたとおり、平成24年5月5日(土) 15:00~16:00に長浜城歴史博物館前 公園町交差点において「子どもを捏造文化の刷り込みから守れ! 街宣 in 長浜 第一弾」を行った。
その報告をしよう。
これが街宣の映像ぢゃ。
(1/4)子どもを捏造文化の刷り込みから守れ! 街宣 in 長浜 第一弾
http://www.youtube.com/watch?v=-TYJwwfXcmg
(2/4)子どもを捏造文化の刷り込みから守れ! 街宣 in 長浜 第一弾
http://www.youtube.com/watch?v=6lcZcOEGYhE
(3/4)子どもを捏造文化の刷り込みから守れ! 街宣 in 長浜 第一弾
http://www.youtube.com/watch?v=-S3QtdOcFrE
(4/4)子どもを捏造文化の刷り込みから守れ! 街宣 in 長浜 第一弾
http://www.youtube.com/watch?v=z7MJbwO2s8U
「韓国茶道協会京都支部」なる団体が4月9日、「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」で民族衣装で茶会を開き、児童らによる韓国民族舞踊「サムルノリ」の歓迎を受けたそうぢゃ。
http://mainichi.jp/area/shiga/news/20120413ddlk25040490000c.html
我々は在日韓国人らが民族衣装で茶会を開き、芳洲を祭る神社に献茶。児童ら韓国民族舞踊「サムルノリ」を踊らせることが許せなくてこのような街宣をしているのではない。
在日韓国人が日本の法律を遵守し、祖国から課せられた義務を果たす一方で心の底から日本の伝統文化を尊重し、日本人と宥和するならば芳洲を祭る神社に献茶することは何らやぶさかではない。
ぢゃが、これらのことができない在日韓国人は大勢おる。
日本の伝統文化を軽侮している例をいくつか紹介しよう。
まず、テコンドー
これは創始者自身が戦後、空手をアレンジしてつくった武道だと言っていましたが、現在韓国人は「空手の源流はテコンドーだ」と主張しておる。
そしてコムド
主に韓国で行われているスポーツ。漢字表記は日本の剣道であり、それを朝鮮語で発音したものがコムドである。
日本統治時代に日本の剣道が朝鮮に導入された。大韓民国において、現在盛んに行われているが、礼法や防具等は剣道を一部改変している。
これも韓国人は「剣道の源流はコムドだ」と主張しておる。
さらにハプキドー
戦前、日本で大東流合気柔術を学んだ崔龍述(チェ・ヨンス、Choi Yong Sul)が戦後、韓国で「大韓合気柔拳術道場」を開いたのが始まりとされる。
その後、テコンドーの蹴り、ボクシングのパンチなどを研究、統合して現在のスタイルになった。1958年ハプキドーを名乗り始める。漢字では「合気道(合氣道)」と書くがこの時点ですでに日本の合気道(Aikido)とは全く別の武道といえる。
大東流をルーツとすること、漢字で合気道(合氣道)と書くことから一部で合気道(Aikido)と混同される場合がある。
これも韓国人は「合気道の源流はハプキドーだ」と主張しておる。
韓国人がパクっているのは日本の伝統文化だけではない。
お菓子の形やパッケージのデザインも多くパクっている。
かっぱえびせん→セウカン
おばあちゃんのぽたぽた焼き→オモニのぽたぽた焼き
そしてアニメ
ドラエモン→トンチャモン
ガンダム→スペースガンダム
マジンガーZ→テコンV
韓国人が日本の伝統文化をパクり、これを「韓国が起源だ」と詐称することは我々憂国派にとっては周知の事実ですが、多くの市民にはまだ知られていない。
子供には何を学ばせなければならないか?
自国の文化か?それとも
終戦のドサクサにまぎれて竹島を強奪して漁民44人を殺し、従軍慰安婦の強制連行などのウソを並べ立ててわが国に謝罪や賠償を要求する国の文化か?
自国の文化に決まってるぢゃろうJK!
当支部は韓国人による日本の伝統文化の韓国起源説の詐称を暴き、子どもへの捏造文化の刷り込みを断固粉砕する。
子を持つ親よ、420年前の天正20年4月12日(1592年5月23日)に朝鮮に攻め込んだ豊臣秀吉のように韓国人による文化侵略、子どもへの捏造文化の刷り込みと戦え!
そして子供に長浜城を建てた豊臣秀吉のように高い才能と志を持たせよ!
この日は「子供の日」ぢゃった。
本来であれば「韓国人による文化侵略、子どもへの捏造文化の刷り込みと戦え!」などという街宣よりももっと言いたいことがあった。
わしは子供を豊臣秀吉のように高い才能と志を持たせ、気高く、勤勉で社会の役に立つ人間に育ててほしいと訴えたかったのぢゃ。
子を持つ親御さんに以下の言葉を捧げよう。
「己を正してしかる後に人に教へばまた誰があえて従はざらんや。<中略>己を正すの学、勤めずんばあるべからず」
[意味:自分を正しくしてその後で人に教えるのであればどうして従わない人がいるだろうか。ありはしない。<中略>自分を正しくする学問に励まないようではいけない。](吉田松陰)
「子孫におしえるには、幼少の時を根本とす。むかしは胎教とて、胎内にあるあいだにも、母徳の教化あり。」
[意味:子孫に人としての道を教えるには、幼少の時期を根本とする。むかしは胎教といって、子供が胎内にあるあいだにも、母徳の教化があった。]
「胎教の心もちは慈悲正直を本とし、かりそめにも邪なる念を発すべからず。」
[意味:胎教の心がけは慈悲と正直を根本とし、ほんのすこしでも邪な心をおこしてはならない。]
「子におしえると云事をあさく心得たる人は、心の教えあることをわきまえず。」
[意味:(幼少時の)子供に教育するということを軽く思っている人は、心の教えがあることをじゅうぶんに知らない。]
「幼少の時には、父母、めのとなどの心行を教の根本とす。さて其子の悪念をひきうごかし、悪にならわざるように、用心第一なり。」
[意味:幼少の時には、父母や乳母などの心と行いを教育の根本とする。さて、その子の悪念を引きうごかし、悪にしたしまないようにすることが、心くばりの第一である]
「姑息の愛はさしあたりては慈愛に似たれども、その子気随になりて、才もなく徳もなく、とりけだものにちかくなりぬれば、畢竟(ひっきょう)は子をにくみて、あしき道へひきいれるにおなじ。」
[意味:甘やかす愛はさしあたっては慈愛のように思われるけれども、その子は気ままな性格になり、才能も考徳もなく、禽獣のような心になってしまい、結局は子を憎んで、悪の道に引き入れるのと同じになる]
「幼少の時には教え戒める事悪しきと心得、寵愛におぼれ、何事をもその子の気随にまかせて佚楽にふけるようにもてなし、ものいい立ちふるまいなどのいやしくそこつにして、その心放埓に習をも戒め制することなし。」
[意味:幼少の時には(親は)教え戒めるが好ましくないと心得て、寵愛におぼれさせ、何事もその子の自由にさせて、遊び楽しませるようにとりなし、言葉使いや行動などの下品で軽率にして、その心が気ままとなる習癖をもいましめ、抑えることもしない]
「母たるもの夫のみじかき所あしきことなどをその子に語りきかせてよろこぶもの、間にあり。これは正しくその子に不孝をおしえるなり。いかんとすれば子の不孝はかならず親の不是なるところを見るよりおこれり。」
[意味:母親たるものは、夫の短所や悪いことなどを、わが子に語りきかせてよろこぶものが、ときどきいる。これはまさしくその子に不孝を教えているようなものである。なんとなれば子の不孝はかならず親のよからぬ言行を見ているところから起こるのである。]
「さて又いえをおこすも子孫なり。家を破るも子孫なり。子孫に道をおしえずして、子孫の繁盛をもとめるは、あしなくて行(いく)ことをねがうにひとし。」
[意味:さてまた、家をさかんにするのも子や孫であり、また家をだめにするのも子や孫である。その子や孫に、人としての道を教えずに、かれらの繁昌をもとめるのは、足がないのに歩いて行くことを願っているのに等しい。]
(以上中江藤樹)
一 父母はその子供のおのずからなる敬愛の的であることを本義とする。
父母を分けて言えば、父は子供の敬の的、母は愛の座であることを旨とする。不幸にして父母のいずれか欠けた場合、残った方が両者の分を兼ねなければならないことは言うまでもない。
二 家庭は人間教育の素地である。子供の正しい徳性と良い習慣を養うことが、学校に入れる前の大切な問題である。
このことが善く行われれば、少年の非行犯罪もほとんどなくなることは、各国において実証されている。
三 父母はその子供の為に、学校に限らず、良き師、良き友を択んで、これに就けることを心がけなければならぬ。
四 父母は随時祖宗の祭りを行い、子供に永遠の命に参ずることを知らせる心がけが大切である。
五 父母は物質的・功利的な欲望や成功の話に過度の関心を示さず、親戚交友の陰口を慎み、淡々として、専ら平和と勤勉の家風を作らねばならぬ。
六 父母は子供の持つ諸種の能力に注意し、特にその隠れた特質を発見し、啓発することに努めなければならぬ。
七 人世万事、喜怒哀楽の中に存する。父母は常に家庭にあって最も感情の陶冶を重んぜねばならぬ。
(以上父母憲章/日本の父母に/安岡正篤)
「克己心を教えてくれる教育はそれが最悪のものであっても克己心以外のことを教えてくれる最高の教育よりもはるかに優れている」
(ジョン・スターリング)
「手本には何の意味もないのだろうか?いや、手本こそすべてである。われわれにとっては手本は学校そのものであり、他からは一切学べない」
(バーク)
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